市町村制覇記

自転車で日本の全市町村を制覇する過程を記録するブログ

群馬の名峰の一つ「榛名山」に自転車で登ろう!(群馬県高崎市〜榛名山〜高崎市)

今回と次回の記事では群馬の中央部に対となってそびえ立つ榛名山赤城山に注目する。標高は前者が1,400 m、後者が1,800 mほどだが、いずれも頂上付近まで自転車で登ることができる。そのため、両方サイクリストには人気で、ヒルクライムイベントも行われている。

 

 

2019年8月11日

群馬県高崎市榛名山高崎市 71 km

榛名山へのヒルクライムにはいくつかのルートがあるが、今回はイベントにも使われる榛名神社経由のルートで行った。

国道に別れを告げてから勾配は上がり、田園地帯を過ぎて森林地帯に入ってからさらに一段階きつい坂になった。そのままゆっくり登っていくと榛名神社の大鳥居が見えてくる。

そこから少し進むと榛名神社の入り口に着いた。せっかくなので中に入ってみる。

山奥の神社だけあって、秘境感があった(それにしては人が多いが)。構内各地にある巨岩も相まって、かなり荘厳とした雰囲気があった。

榛名神社を出て再び登っていく。しばらくすると勾配10%を超える坂が連続する。今回最大の難関である。一回側溝につまずいて足を着いてしまったが、なんとか登り切った。

そこから少し降ると榛名湖のほとりに到着した。湖からは榛名山の頂上である榛名富士が見えた。

周辺には、船乗り場や飲食店があり、観光地化していた。

湖を東回りで進むと東吾妻町に入った。榛名山高崎市東吾妻町で分け合っているということになる。

方角が変わると榛名富士もより近くで見えるようになった。

今度は別ルートで山を降りることとする。東に向かうルートである。高原といってもよい緩い勾配を登っていき、登り切ると急勾配を降っていく。途中、渋川市に入った。

下る途中、眼下にかなり栄えていそうな街並みが見えた。

この町の正体は伊香保であり、伊香保温泉で有名である。写真の大階段がこの温泉の代表的風景と言えるだろう。大変人が多く賑やかで、東京方面から気軽に行ける温泉地ということで、人気の観光スポットであることが伺える。

伊香保からもさらに坂を下り、渋川市街に入った。

関東平野の最北端にあることが反映されているのか、渋川市街は東西方向に坂があり。坂の一番下に渋川駅があった。

ここからは南下して高崎駅へ戻ることにした。途中、吉岡町に入った。高崎市前橋市ベッドタウンの役割を果たしている町であり、住宅街が多かった。

その後、高崎駅まで戻り、輪行にて帰った。

 

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今回の制覇市町村:群馬県東吾妻町渋川市吉岡町

制覇状況:260/1,718

絶景広がる高原道路「ビーナスライン」を走ろう!(長野県茅野市〜長野県松本市)

2019年8月4日

長野県茅野市〜(美ヶ原高原経由)〜長野県松本市 91 km

ridewithgps.com

 

この日は松本市のカプセルホテルで朝を迎えた。鉄道で茅野駅まで行き、そこから前日悪天候のため引き返したビーナスラインに再び挑んだ。

ビーナスラインとは、長野県にあり、標高800 m付近の茅野市街と標高2,000 m近い美ヶ原高原を結ぶ、日本有数の高原道路である。獲得標高は2,000 m以上で自転車での制覇は非常に難しいルートだが、日本とは思えない絶景が見られるとのことで、挑戦してみた。美ヶ原高原に到達後は高原の遊歩道を歩いて高原の反対側に出て、そこから坂を下って松本市に至る予定であった。

茅野駅を出て5 kmほどすると早くも急な坂が現れた。夏の暑さに辟易しながら登っていくと、一旦坂が緩くなり、蓼科高原にたどり着いた。リゾート地として知られ、蓼科湖という景勝地もある。

その後は再び坂がキツくなり、標高600 m分を一気に登っていく。この区間ビーナスライン第一の難関である。100 mごとに現れる標高の看板に励まされながら登って行く。登れば登るほど暑さが和らいでいったのが唯一の救いであった。

この区間は森林に囲まれて眺望が悪いが、時折開けた場所があり、そこからはどこまでも広がる森林を見渡すことができた。

標高1,760 mに達するとついにスズラン峠に達した。同時に、立科町にも入った。地味ながら今回も市町村制覇をできる旅となる。

標高200 mほど下ると白樺湖に至る。この周辺もリゾート地として人気であり、多数のホテル、商業施設、観光客で賑わっていた。

白樺湖からは再び坂を登るが、スズラン峠よりは緩やかである。何より、ここからは森林がプツリと姿を消し、草原が広がるビーナスライン一番の絶景ポイントである。

この周辺は霧ケ峰高原と呼ばれ、牧畜のための草場とされてきたため、本来森林限界以下なのに森林はなく、草原が広がっている。ここには多種多様な高原植物があり、そのいくつかは花を咲かせていた。想像以上の絶景であり、何度も足を止めて写真を撮りつつ、快調に進んでいった。

これはキク科のアキノキリンソウと思われる。

これはタデ科のイブキトラノオである。

ユリ科ニッコウキスゲの群生もあった。これぞ「お花畑」である。

その他、キンバイソウ、エゾカワラナデシコなど、多くの高山植物の花が咲いていた。

大半は5%以下の緩い上り坂、たまに下り坂という道が続いたが、たまに10%近くの上りも出現し、その時は力を入れて登った。

しかしそこを登ると、また絶景であった。windowsの壁紙に出てきそうな絶景である。少々曇っているのが残念である。高原の天気は移ろいやすく、晴れていたかと思えば急に雨が降り、雨が止むと再び晴れ間が見える、という調子である。

霧ヶ峰駐車場の交差点を右に曲がると一旦下りとなり、再び森林地帯に様変わりして行った。

ここからしばらくは和田峠、扉峠などの峠を通過しつつ坂の上り下りを続けた。そして府道178号線との合流点(落合交差点)を過ぎると、最後の難関が現れる。平均9%の坂が4 kmほど続くワインディングロードである。最後の気力を振り絞りつつ、ペダルを回した。

そして、ついにビーナスラインの最高地点(標高1,959 m)に到達した。ここに至ると森林はなくなり、再び草原地帯が広がる。しかし、その達成感、絶景を堪能している暇はなかった。なぜなら豪雨が降ってきたからである。急いで近くにあった山小屋に避難した。

草原の向こうには美ヶ原高原美術館のものと思われるモニュメントが見えた。こんな場所に美術館があるのは日本全国でもここだけであろう。

ちなみにビーナスライン最高地点は、今まで走ってきた長和町と上田市の境界であり、撮れていなかった長和町のカントリーサインを入手することができた。

雨が小降りになったので山小屋を出て、美ヶ原高原の遊歩道を自転車を押しながら歩き始めた。

今でも牧畜をおこなっているのか、馬や牛の姿を見ることができた。

高山地帯にしか生えないハクサンフウロフウロソウ科)の群生があった。このような珍しい植物をじっくり見られるのが歩きの利点である。

やがて遠くに、中世ヨーロッパの城郭と見間違うような建物が見えてきた。近づいてみると、どうやらホテルと電波塔が併設されているようである。

近くには美ヶ原で最も標高の高い地点である、王ヶ頭があった。いつの間にか標高が2,000 mを越えていた。人生で初の2,000 m超えである。

その後はホテルの出口にあった車道から自転車に乗り、一気に降った後、上り下りが連続する道となった。武石峠の交差点で左折し、ヒルクライムレースでも使われる急勾配の坂を一気に降っていった。このような下り坂はスピードが出過ぎるので、かなり恐怖感を覚える。

途中、美鈴湖を通り過ぎた。

なおも降っていき、武石峠から標高1,200 m差を消化してようやく松本盆地に出た。この後は松本駅まで至り、輪行で帰宅した。

 

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今回の制覇市町村:長野県立科町、長和町

制覇状況:257/1,718

長野県南部の盆地「伊那谷」を走ろう!(長野県茅野市〜飯田市)

2019年8月3日

長野県茅野市飯田市 84 km

今回は、かねてから走ってみたかった長野県の「ビーナスライン」を通って「美ヶ原高原」を目指す旅になるはずだった。そこで、ビーナスラインの起点である茅野市街にある茅野駅まで輪行してやってきた。

ここから市街地を抜け、ビーナスラインの最序盤の平坦区間を走っていたのだが、急に大雨が降り出した。すでに時刻は午後を回っており、雨が止むのを待っていると美ヶ原には辿り着けないと判断し、予定を変更して、未踏の地である「伊那谷」に向かうことにした。

伊那谷は長野県南部の盆地であり、中央アルプス南アルプスの2山脈の間に流れる天竜川沿いに細長く広がっている。

諏訪湖南岸を通って岡谷から天竜川沿いに走った。ちなみに天竜川は諏訪湖から流れだしており、川の起点としては珍しい。しばらく走ると辰野町に入った。

川沿いの林をなおも走るとにわかに風景がひらけ、伊那谷、続いて辰野市街に入った。辰野駅は人口2万人弱の小自治体にしては新しく、立派な駅であった。

国道153号線に合流し、箕輪町、ついで南箕輪村に入った。それぞれ町村といえど人口は1万人を超えており、国道沿線もかなり栄えているようだった。ちなみに南箕輪村には信州大学農学部キャンバスがあり、村としては珍しい大学所在地である。

どうやらいつの間にか建設中のバイパスを走っていたようであり、伊那市に入ってしばらくすると道が途切れてしまった。仕方なしに2kmほど西で併走していた旧国道に合流した。

旧国道に合流してしばらく走るとまたもや伊那市カントリーサインに遭遇した。どうやら知らぬ間に南箕輪村に戻っていたようである。旧国道は長野県特有のイラスト付きカントリーサインにグレードアップしていた。伊那市カントリーサインにあるのは春日城址公園の桜と木曽山脈であろう。

谷とは名がつくが、伊那谷の幅はかなり広く、一面田んぼが広がっていた。

今回、伊那市街はスルーしたが、以前に鉄道旅で飯田線に乗った際に伊那市街を散策したのでその写真を載せる。伊那市伊那谷北部の中心都市である。駅周辺は古びた建物が並ぶ、ザ旧市街という街並みになることが多いが、伊那駅周辺はかなり新しい建物が並ぶ、生き生きとした区間もあった。

市街のすぐ東側には天竜川の清流が流れていた。上流とは思えない川幅と水量であった。

さて、伊那市を出て宮田村に入った。こちらは人口8000人ほどで市街地もそれ相応に感じた。ちなみに宮田村は一度宮田町として南隣の駒ヶ根市と合併した後、宮田村として分立、復活したという珍しい経緯を持っている。

駒ヶ根市に入った。ここまで道は平坦だったが、宮田村から駒ヶ根市街にかけては坂の上り下りが連続してあった。

駒ヶ根市街に入った。駒ヶ根は市名の由来となった木曽駒ヶ岳をはじめ、周辺の木曽山脈の山々の玄関口として機能しており、登山客の来訪は多いようである。ただ、人口は伊那市の半分ほどで、心なしか古めの建物が多いようであった。

飯島町に入った。カントリーサインにあるのは江戸時代にあった飯島陣屋であるらしい。この町の途中から道は一気に下り坂が多くなった。

その後中川村、松川町、高森町と、次々と町村を制覇した。ここら辺は平成の合併を耐え抜いた町村が数多く点在する。伊那谷中部のこの一帯は日本の大都市圏から物理的にも交通的にも遠く離れた「絶陸の孤島」であるにも関わらず、どのようにして存続し続けたのか、興味はあるが今日に至るまで答えには巡り会えていない。

そのような「絶陸の孤島」の空白地帯にぽつねんと現れる10万都市が、伊那谷最大の市、飯田市である。

飯田市は城下町、宿場町として栄え、天竜峡やりんご並木、飯田城跡など名所も多い。飯田市街も伊那市同様、前の鉄道旅で訪れたので、今回ではなく以前の写真となるが、駅前から伸びる道はかなり栄えており、人も多かった。ちなみに飯田城跡含む飯田市街は丘の上にあり、往時は当地が要害の地であったことを窺わせる。

今回の旅では飯田市に入ってすぐの元善光寺駅から松本駅に至り、そこのカプセルホテルで一泊し、翌日改めてビーナスラインを走ることにした。その模様はまた次の記事で記したい。

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今回の制覇市町村:長野県辰野町箕輪町南箕輪村伊那市、宮田村、駒ヶ根市飯島町、中川村、松川町、高森町、飯田市

制覇状況:255/1,718

福島県の米どころ「会津地方」へ向かおう②!(栃木県日光市〜福島県会津若松市〜福島県白河市)

前回より続く

 

2日目

福島県会津若松市福島県白河市 95 km

やはりネットカフェではあまり寝れず、重たい頭を抱えて2日目がスタートした。夜間に雨が降ったらしく、地面は濡れていた。会津若松市の郊外を北へ進み、会津盆地にあるもう一つの市、喜多方市に向かう。

途中、湯川村を通った。村とは言っても、一般的な村のイメージの山間には位置せず、盆地の真ん中にある。

湯川村はすぐに通り過ぎ、喜多方市に入った。

なおも北上し、喜多方市街に入った。喜多方は会津盆地の北端に位置し、人口は4万人と会津若松市の半分くらいしかないが、場合によっては会津若松より有名な地名である。

今や日本人の国民食と言ってもいいラーメン。全国各地でさまざまな地元ラーメンがしのぎを削る中、喜多方は日本で最も有名なラーメンの一つ、喜多方ラーメンの発祥の地として知られる。

喜多方まで来てラーメンを食べないわけにはいかない、ということで今回は人気の喜多方ラーメン店である「ばんない」にお邪魔した。朝10時くらいに訪問したが、それでも長蛇の列ができていた。

1時間ほど待ってようやくラーメンにありつけた。醤油ベースの豚骨に背脂を浮かべたシンプルなスタイルだが、人気店なだけあってとても美味しかった。

ラーメンを食べ終わった後、喜多方駅に寄った。なかなか意匠を凝らした駅であった。喜多方は蔵の街としても知られているので、蔵を再現しているのかもしれない。

市街を出て、南へと引き返す。途中はひたすら田んぼが広がる景色である。盆地ということで、会津の平野は狭いイメージを持っていたが、今回の訪問でかなりの広がりを有していることを実感できた。さすが、福島県の米どころである。

市境まで戻った付近で国道を離れ、東南に向かった。途中、磐梯町に入った。その名の通り、福島県で最も有名な山、磐梯山の麓にある街である。

磐梯町に入ったあたりから上り坂がキツくなっていった。出発から降ったり止んだりしている雨に気を揉みつつ、蓄積した疲労を抱えながら、なんとか登っていった。そしてついに下りが始まった。この時点で標高200mから500m登った計算になる。ちなみにいつの間にか猪苗代町に入ったようだ。

少し坂をくだり、猪苗代盆地に入った。まずは猪苗代駅に向かった。猪苗代は明治時代に活躍した病理学者、野口英世の出身地であるらしく、等身大のパネルが駅構内にあった。

また、猪苗代町の南には福島県最大の湖、猪苗代湖が広がっている。せっかくなので湖畔まで行ってみた。大きさは日本第四位とのことだが、その肩書きに違わぬ巨大な湖であった。曇りなのであまり映えなかったが、水は澄んでいることもあり、晴れならば素晴らしい景色なのだろう、と口惜しく思った。

湖畔に別れを告げ、東に向かうと盆地から山間地帯になり、道も上り始めたが、程なくトンネルに入り、郡山市となった。

ここから一気に下っていくわけだが、折悪しく雨足が強くなり、スリップしないよう慎重に下っていった。

途中、有名温泉地の磐梯熱海の温泉街を通過したが、ますます雨が強まったので一旦雨宿りした。

雨が弱まったタイミングを見計らって再出発した。坂を降りきり、郡山市街に入った。郡山市福島県第一位の人口を誇り、30万人が居住している。そのため、広範囲の市街地を有し、高層建築や商業施設も多いようであった。

今度は東北地方の基幹道路、国道4号線を南に下っていく。広かった郡山市街が尽きる頃、須賀川市に入った。

須賀川市郡山市ベッドタウンとして一定の繁栄を享受している街である。国道を離れ、市街に寄ってみた。市街は丘の上に存在しているが、かなり賑やかで、かつ洗練されている印象であった。

再び国道に戻り、鏡石町、ついで矢吹町に入った。福島県はこのような多数の中小の町村が平成の大合併を免れて、残っている。鏡石町を通過している途中でまたしても雨が強くなった。こんなに強い雨が複数回降るのは自転車旅においては初めてのことであった。

矢吹町を通っている途中で一旦雨は弱まり、そのまま泉崎村に突入したが、またも雨が強くなった。

なんとか白河市まで入ったものの、これ以上進むモチベーションがなくなってきたため、日没までまだ時間はあるものの、白河駅までとし、そこから輪行で帰宅した。

旅の後半こそ悪天候に見舞われたが、会津盆地をはじめとした東北のスケールの大きさに圧倒され、これ以降の、私の東北好きが高まる契機となった、記憶深い旅であった。

 

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今回の制覇市町村:福島県南会津町下郷町会津若松市湯川村喜多方市磐梯町郡山市須賀川市、鏡石町、矢吹町泉崎村白河市

制覇状況:244/1,718

福島県の米どころ「会津地方」へ向かおう①!(栃木県日光市〜福島県会津若松市〜福島県白河市)

2019年7月13日〜14日

栃木県日光市福島県会津若松市福島県白河市 206 km

前回の自転車旅から2ヶ月、例年以上に雨が多い梅雨の空に私は辟易としていた。雨は自転車の天敵の一つである。合羽を着ていても濡れるし、視界は悪くなるし、滑りやすいし、何一ついいことがない。なので、通常雨予報ならば自転車旅、それも泊りがけの旅は避けるが、連日雨が降る土日に耐えきれなくなり、梅雨が明けていないにもかかわらず今回は東北への宿泊旅を決行した。目指すは福島県の西部の内陸地方に広がり、四方を山に囲まれた地、会津である。

 

1日目

栃木県日光市福島県会津若松市 111 km

関東全県周遊自転車旅(本ブログ未掲載)で訪れたことのある日光市下今市駅までは輪行し、そこから自転車で北へ向かって出発した。

10kmほど北上すると鬼怒川温泉に辿り着く。ここは以前、純粋な温泉旅行で友達と訪れた地である。バブルの反動もあって温泉街は若干寂れ気味の箇所もあるが、今なお根強い人気を誇る温泉地であり、当時は紅葉シーズンだったため、赤に染まった鬼怒川の渓谷を見ることができた。

鬼怒川温泉を抜け、東武鉄道野岩鉄道の境界となる新藤原駅付近を過ぎると俄に上りの勾配が上がる。そして、鬼怒川も山林の遥か下に沈んでいく。

しばらく登ると勾配は落ち着き、やがて川治温泉に着いた。こちらもかなり人気の温泉街である。日光市には湯元温泉も含め、有名な温泉地が数多ある。社寺だけではない魅力が日光市には多い。

川治温泉郷の途中から再び勾配はきつくなり、人里離れた地となる。途中、五十里ダムが姿を現すとまたしばらく緩い坂となる。

ダム建設によって出現したダム湖を見ながらなおも北上する。人造湖だが、周囲が自然豊かなため、美しい景色である。

湖に浅い場所があったためか、珍しく、湖の中に木が生えている一角もあった。

ダム湖終結してしばらくすると再び集落が現れた。ちなみにこの三依の地にも温泉はあるが、温泉街らしきものはなかった。

鬼怒川もかなり上流に差し掛かっており、滝を見ることができた。

福島県への県境越えに挑む前に、少し寄り道をした。まるで文明的なものがなさそうな分かれ道の先を見て、本当に目的地に至る道なのか不安を覚えた。

500mほど進むと目的地に到着した。関東では一番の秘境駅と名高い、男鹿高原駅である。野岩鉄道の駅だが、周囲に全く民家はなく静けさに包まれている。

ただ、来訪者は多いようで、駅ノートにはたくさんの書き込みがあった(内容は一応非公開とする)。やはり秘境駅としての名声は大きいようだ。

さて、再び国道に戻り、県境越えに取り掛かる。この栃木、福島県境には山王峠が存在する。男鹿高原駅からの分岐点からは標高100m未満の上りだが、峠と名のつくだけあって、今までより勾配は急になった。

ただ、登りはすぐ終わり、トンネルとなった。本来、トンネルの先が福島県のはずだが、カントリーサインはトンネルの前に置かれていた。他の国道の福島県境にも置かれている、特徴的なクソでか看板である。これで長かった栃木県日光市も終わりである。

トンネルをすぎ、福島県南会津町に入った。二度目の東北侵入である。坂を下っていくと比較的すぐに坂は緩くなり、T字路となった。ここは右に曲がる。左に曲がると100km以上山道が続く(推定)地獄の旅路となる。

福島県に入ってからは、栃木県内とは打って変わって広い道となり、心なしか川周辺の平坦部も広々と感じる。東北のスケールの大きさを感じた。

下り基調の道を10kmあまり進むと、南会津町の中心地、田島市街に入った。市街にある会津田島駅会津鉄道ターミナル駅、乗り換え駅として充分な威容を持っていた。南会津町は4町村が合併した町で、温泉や湿原、スキー場があり、ソバ畑が広がるほか、尾瀬国立公園の入り口としても機能している。

市街を出た後は阿賀川の北岸に沿って走り、下郷町に入った。

程なく下郷市街に入った。古くは会津西街道という日光〜会津若松間を結ぶ街道の宿場町だったようだ。

せっかくなので下郷町の観光名所、「塔のへつり」に寄る。会津鉄道を横切った際、特徴的なキャラ電車がちょうど走っていた。

塔のへつり阿賀川のそばにある崖であり、単純に高さがあるだけでなく、木々や吊り橋、川とのコンストラクトも美しかった。

国道に戻り、阿賀川に沿って北上した。塔のへつりの造形からもわかる通り、ここら一帯は狭い谷となっており、人家も影を潜め、見えるのは澄んだ川面と山林がほとんどである。道も川に沿っているが山がちで、上り下りが激しかった。そのような道の途中で会津若松市に入った。本日の目的地である。

会津若松市に入っても上り下りは続き、疲弊した私の足を痛めつけた。それでも景色は美しく、小休憩しつつ進んでいった。

そしてついに視界は開け、会津盆地に突入した。福島県の米生産を支えているだけあって、田んぼが広がっていた。

そして、会津若松市街地に突入した。会津若松会津で最大の都市であり、人口10万人を擁する。古来より東北地方への抑えとして機能してきた会津の地の中心地として栄えた城下町である。

その城下町としての会津若松を象徴するのが、これから訪れる若松城、通称鶴ヶ城である。

城門からしてかなり立派である。

そして、鶴ヶ城の中心である、天守閣である。鶴ヶ城はもともと蘆名氏という会津の地方大名の居城だったが、豊臣政権による天下統一後、豊臣秀吉重臣である蒲生氏郷によって城下町を含め整備され、江戸時代の途中からは会津松平家の居城として親藩(徳川家の親戚)の会津藩の中心地となり、幕末の戊辰戦争では幕府を転覆させた明治政府に抵抗するため、会津藩がこの城に籠城し、政府軍と激戦を繰り広げた。白虎隊の悲劇が起きたのもこの地である。そんな歴史を思い浮かべながら、この天守を眺めた。

程なく日没となり、夕暮れの中、天守が映えていた。

鶴ヶ城から1km北上すると旧市街(元城下町?)と思われるような場所に着いた。先ほど説明した蒲生氏郷墓所とされる地もあった。

若松市街の案内板もあった。鶴ヶ城以外にもいろいろなスポットがあるようだ。

さらに1km北上すると会津若松駅に着いた。鶴ヶ城を模したと思われる駅舎である。

この日は駅を少し通り過ぎた郊外にあるネットカフェで一泊した。

2日目に続く

 

 

1泊2日で長野を再訪しよう!②(長野県松本市〜群馬県安中市)

2日目

長野県松本市群馬県安中市 136 km

さて、二日目は松本盆地長野盆地南部の間に横たわる山岳を越え、千曲川水系を遡って長野と群馬の県境を超える行程であり、かなり気合を入れる必要のある道となる。前日に引き続き晴天となったが、この山越えの過酷さと逆風に苦しめられる1日となった。

松本市街からはまず犀川に沿って北上し、安曇野市の旧明科町に入った。ここは前回の長野旅で私を山間の心細さから解放した、栄光ある地として記憶に刻まれている。今回は少し明科の街を巡ってみたが、メルヘンチックな屋根を有する小学校があったり、風光明媚な川沿いの公園があったりして、街としても面白さがあった。

明科からは犀川の支流を伝って東へ進み、再び松本市に入り四賀という地に至る。この四賀からは北に道をとっておよそ標高950 mの風越峠を越え、筑北村に入った。県道であるせいか、カントリーサインはなかった。

坂を下り切ると筑北村役場のある、村の中心地に至る。筑北村は三つの村が合併したのに町に昇格せず、そのまま村を称した珍しい自治体であり、役場は旧本城村にある。村にしては意外と大きい街のようである。

その後は山に囲まれているものの、広々とした水田風景が広がっていた。山の中の村といえば狭い谷にまばらにある農地、他は全て森林という風景をイメージしていただけにこれは意外な景色だ。ついテンションが上がり、快調に走っていく。

筑北村を出て、麻績村に入った。これで「おみ」と読む、初見だと絶対読めない村名を有する。筑北村に三方を囲まれており、なぜ筑北村と一緒にならなかったか疑問に思うくらいの立地である。

筑北村に引き続き田園風景が続き、麻績村の中心街に入った。往時には麻績宿という宿場町だったらしく、当時の雰囲気を残す通りも存在するようだ(今回は国道を通ったので、その通りには行っていない。

その後は次第に上り坂がキツくなっていき、やがて訪れたつづら折りの坂を越えると、聖高原と呼ばれるエリアとなる。ここは峠付近に広がる平地であり、下の写真の聖湖などがあり、リゾート地として開発されているようである。

湖が尽きてからすぐに猿ケ馬場峠を越え、千曲市に入った。

ここから急勾配かつ曲がりくねった道を下っていく。途中、日本昔話の一つにもなっている姨捨山伝説の生まれた地とされる姨捨(おばすて)も通った。老婆を捨てる地という人権意識や敬老のかけらもない地名がついていることに改めて驚愕させられる。ただ、この姨捨の地は日本有数の棚田景観を有する地として知られており、さらに見下ろせば千曲市街のある長野盆地南部を一望することができる。

坂を下り切って千曲川を越え、千曲市街に入り、国道18号と合流した。ここからは前の長野旅で走った道を逆行して、千曲川に沿って遡ることになる。ただ、前回は雨でカントリーサインが撮れなかったので、今回は道沿いの市町村を再征服することとなる。

まずは坂城町に入る。町を横断するしなの鉄道テクノさかき駅という駅名があることからも分かる通り、機械業などの工業が盛んな町である。

家屋と田畑が混じる道を行き、上田市に入った。上田城で有名で、戦国時代は真田幸村を輩出した真田氏の本拠地であった地だ。また、上田市街から離れた箇所には別所温泉鹿教湯温泉などの温泉地や、菅平高原などのリゾート地も存在する。上田城は以前の長野旅で訪問したので、スルーした。

上田市街から次第に上り坂が始まり、東御市に入る頃にはかなりきつい勾配になっていた。ついでに向かい風も強く、なかなか速度が上がらない。東御市を通っている時はずっとそんな調子で進んでいった。ちなみに東御市カントリーサインにあるように、巨峰などのブドウの産地である。長野県はこのような市町村の特徴が一目でわかるカントリーサインが(高速だけでなく)下道にもあるのが素晴らしい。

小諸市に入った。小諸藩の城下町として栄えた地で、カントリーサイン小諸城を示しているようだ。小諸市に入ってもまだまだ坂は続く。ちょっと緩んだと思ったらまた急勾配の坂になる。そのような階段状の登りが繰り返し続く。こんなに市が続き、しかも市街地もぶち抜いているのにきつい上り坂を有する国道は他にないと思う。

少し迂回したら坂も和らぐかな、と安易な考えで一旦南下した。実は市町村制覇の目的もあり、佐久市境まで行くことができた。

続いて東北へと進んでいき、御代田町に入った。ここら辺は割と平坦だったが、やはり辛い上りは避けれられず、国道に合流した後にも続く上りをなんとか耐えて、軽井沢街に入った付近でようやく下りに転じた。本格的に上り始めてから約25 kmの時だった。この区間は一般的に峠としてあまり認知されていないが、逆風だったということもあり、今までの上り坂で屈指の辛さだった。

軽井沢市街を通過した後は、標高で50 mしか登らない、今までの行程に比べ圧倒的に楽な峠(碓氷峠)を越え、群馬県安中市に入り、標高600 m分を一気に下った。碓氷峠は行きと帰りで登る高さが大きく異なる、稀有な峠であることを改めて実感した。その後は碓氷峠の麓にある横川駅から輪行で帰宅した。

前回の長野旅も悪天候で大変だったが、今回も上り坂と逆風でしんどい思いをした。それでも、自転車旅を終えた後、疲れが癒えるにつれて次の地へと挑む気持ちが膨らんでくる。私はそこに人生の充足感を感じるのである。

 

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今回の制覇市町村:山梨県北杜市、長野県富士見町、原村、茅野市諏訪市下諏訪町岡谷市麻績村坂城町上田市東御市小諸市佐久市御代田町

制覇状況:232/1,718

1泊2日で長野を再訪しよう!①(山梨県甲府市〜長野県松本市)

2019年5月19日〜20日

山梨県甲府市〜長野県松本市群馬県安中市 219 km

前回行った雨中の長野旅が忘れられず、今回2度目となる長野遠征を行った。今回は前回と打って変わって晴天が続き、気持ちの良い旅となった。

 

 

1日目

山梨県甲府市〜長野県松本市 94 km

前回は東京の自宅からはるばる長野まで行ったが、今回は甲府駅まで電車で行き、甲府駅輪行を解除して出発した。

国道20号線を使ってすでに制覇済みの韮崎市を通り過ぎ、北杜市に入った。山梨県最北端の市で八ヶ岳連峰を始めとする山々に囲まれた高原に複数の街が点在している。

北杜市に入ったあたりから本格的に上り始め、周囲の風景も山がちになってきた。上りの途中で県境を越え、長野県富士見町に入った。

富士見市街を通過し、なおも上っていくとついに富士見峠に到達した。標高900 mほどなので、甲府駅から600 mほど上ってきた計算になる。

下り始めてからしばらくして茅野(ちの)市に入った。人口5万人強を有しながら、市街地でも標高800 mの地に存在する高原都市で、市域には蓼科高原白樺湖などの景勝地・リゾート地を有する。

青柳駅付近まで下ったあと、一旦国道を離れて東へ向かった。

急な坂を上り、原村へ入った。八ヶ岳の麓の村であり、避暑地として別荘やコテージが点在している。

そのまま原村の中心街まで行ってみた。村としては意外に住宅が多く、スーパーもあるようだった。

国道に戻って再び下っていくと茅野市街に入った。市としては珍しく、市名と同じ「茅野」という交差点があった。人口がそこそこいるだけあってしっかりした街であり、駅も古いが、エレベーターなど相応の設備は整っているようだった。

茅野市街あたりで道は平坦となり、諏訪市に入った。その名の通り、長野県最大の湖である諏訪湖のほとりに位置する市である。

諏訪市に関しては以前鉄道旅を行った際に立ち寄ったので、今回はスルーした。せっかくなのでその際の写真も載せておく。駅から徒歩5分ほどで諏訪湖畔にある公園に至り、数十分おきに温泉が噴き出す間欠泉を見ることができる。もちろん普通の温泉にも入ることのできる温泉地でもあり、なんと駅のホームに足湯がある。

訪問当時は祭りの時期であったようで、提灯が飾ってあった。諏訪神社のお膝元だけあって大々的な祭りが催されるようだ。

さて、自転車旅の記述に戻る。諏訪市を出て、下諏訪町に入った。下諏訪は諏訪湖の北岸に位置し、諏訪大社の上社がある(下社は諏訪市茅野市に存在)。諏訪大社は古代から存在する由緒正しき神社であり、古くは大和朝廷の東国経営の策源地として機能した他、戦国時代は当社の神主を務めていた諏訪氏が土着大名化し、武田信玄と鎬を削った。国道から遠いこともあり、今回はスルーしたが、いずれ訪れたい神社である。

なおも諏訪湖周辺を反時計回りに進み、岡谷市に入った。諏訪湖の西端に存在し、人口5万人ほどを有する。古くは製紙業、現在は時計などの精密工業で栄えた工業都市である。

岡谷市街からは諏訪湖畔を離れ、再び坂を上っていく。途中、岡谷市街と諏訪湖を見下ろせる絶景ポイントがあった。

九十九折りの坂を上っていき、標高1000 m超えの塩尻峠を抜けて、制覇済みの塩尻市に入った。塩尻市はなんといってもワインが有名で、ワイン目的の観光客が後を絶たない地である。

峠を降り切ると松本盆地に入る。塩尻市街からは北上して松本市に入った。本日は松本市街で宿泊する。夜には松本名物の山賊焼きを食べた。大きな鶏肉を唐揚げ風に揚げたもので、今回訪れた店では鶏肉2枚分出てきて満腹まで食べることができた。

 

2日目に続く